江戸時代における吉原遊廓の実態と古写真。遊女たちの性病・梅毒

日本では、江戸のみならず大坂や京都、駿府、長崎などにおいても大規模な遊廓が存在し、地方都市にも小さな遊廓は数多く存在していたとされていますが、何より最大規模だったのは江戸郊外にあった吉原遊郭です。

◆最盛期に数千人の遊女がいた吉原遊郭

遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致

江戸時代以前から売春防止法が施行されるまで、日本では、江戸のみならず大坂や京都、駿府、長崎などにおいても大規模な遊廓が存在し、地方都市にも小さな遊廓は数多く存在した。

既に電柱が立てられていて、電気が通っていますが、豪華さは昔ほどではありません。

明治期以降になると吉原遊廓は縮小されていくが、それでも、昭和32年(1957年)4月1日の売春防止法施行まで、元吉原の時代から数えて340年に渡って、吉原遊廓は営業

現代で言う「ボッタクリ」を店が行うことは良しとはされず、ぼったくり行為を行った店の主人が処刑された例もある。

明治40年代の写真。角海老楼の時計塔は東京の名所としても有名で絵葉書にもなりました。当時、角海老楼は吉原随一の大楼で格式が高く庶民は近寄れなかったと記録に残っています。

1910年の写真。当時のお座敷遊びの様子。並んでいる瓶はビールでしょうか。写真集「不夜城、吉原」の中の一枚。撮影は写真家 小川一眞氏。

◆農村部から身売りされてきた遊女たち

身売りされる年齢と金額はどれくらいだったかといいますと、幼女の場合は7~8歳(時には5~6歳)、もう少し大きくても10代前後の少女だったそう。

農村部での場合、3~5両(現在のおよそ30~50万円)で幼女を女衒が買ったという記録があります。下級武士の場合だと18両(およそ180万円)

表向きは幕府も人身売買を禁じていたため、「遊女は妓楼で働く奉公人」ということになっていましたが、それはあくまで建前。

女衒(ぜげん)と呼ばれる“人買い”に親や親類、時には夫が娘や妻を売り渡していました。江戸市中の場合は女衒を使わず直接、妓楼に親らが娘を売ることもありました。

◆病気にかかって死亡する遊女たち

梅毒により死亡する遊女が多くいたそうです。梅毒以外にもほかの病気にかかったり中絶により体を壊し、死亡することもありました。

幕府医学所頭取の松本良順が書いた『養生法』(1864)には、《下賎の人間100人のうち95人は梅毒にかかっている。その原因は花街・売色に規制がないからだ》とあります。

18世紀中旬にほとんど見られなかった梅毒は、19世紀中旬にはかなりの感染者がいた……つまり、わずか100年ほどで、日本に梅毒が異常に蔓延した

後に吉原の隠語では最下級の遊女のことを「鉄砲」と呼びました。そういう遊女を買うと、梅毒に当てられるから

新造はお客をとる前、ある儀式を行わねばなりませんでした。それは、初体験、つまり処女の喪失です。これは「水揚げ(みずあげ)」と呼ばれるもので、禿から妓楼にいる少女や、未婚の女性など処女に対して行われました。相手をするのは、妓楼が依頼したその道に長けた40歳ぐらいの金持ちの男性だったそう。

とにかくこうした恵まれない待遇から脱したければ出世するしかありませんでした。そのため、遊女たちは芸を磨き、お客を悦ばせるためのテクニックを磨きました。

正月には餅つきをするなど季節のイベントもありましたし、貧農の娘のままなら一生着ることのできない豪華な着物や髪飾りをつけることもできたうえ、茶道や和歌など諸芸を学ぶこともできました。

◆最高位であった花魁は、男性を選べる立場

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